上伊由毘男のブログ

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死がいつも隣にあるように感じるようになったのはいつからだろうか

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今、自分は死というものが、まるで空気のように常に身の回りにあるように感じています。それでいて、死の恐怖というものを感じないようになってしまいました。
昔からそうだったわけではないです。“ある出来事”がキッカケだったのですが、それについては長くなるので割愛します*1



[ま]あした死ぬかもよ?/自分だけは死なないと思う気持ちに終止符を打って後悔しない生き方を @kun_maa - [ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

どういうわけか、僕も含めて人は「自分だけは死なない」と思っています。

いや、誰もが必ず死ぬことは知っているわけですから、正確には「自分だけはすぐには死なない」という意味ですけど。

いつか死ぬ身であるということをしっかりと心に留めたときに、人は自分の人生に対する本当の気持ちを取り戻すといいます。


ブログ主さんの意図するところとは違うのでしょうが、私は、ああそうか大多数の人は毎日の生活の中で死を意識することはないんだよなあと思いました。かつで自分もそうであったように。
明日クルマにひかれるかもしれない、ペンチが電柱の上から落ちてくるかもしれない、大地震が起こるかもしれない、隕石が落ちてくるかもしれない、恐怖の大王が降りてくるかもしれない、いちいち気にしてたら正気を保って生きてはいけないでしょう。
だから、健康で平穏な日々においては死を意識しないというのも、脳みそが本能的にそうやってるのかもしれません。



年齢を重ねるごとに死の恐怖が大きくなっていきませんか? - 攻めは飛車角銀桂守りは金銀三枚

こどものころから「いつかは自分が死ぬ」という

ことを考えて、言葉にはできない程の恐怖を

感じる瞬間がありました。

おそらく誰にでもあるのでしょう。

こちらのブログ主さんは私と同世代のようですが、私も“ある出来事”を体験するまでは、同じように感じていたような気がします。
今はそれもないです。
でもそれは、達観してるとか、精神集中をしたからではなく、単に、人生どうでもよくなったからです。


お二方のブログを読んで、ああ世の人々にとって死ぬのは怖いことなのだなあ、などと、あらためて理解しております。
そして、死を恐れられる、生のありがたみがわかるということは、幸せなのだろう、とも思います。


私もかつては、生きてやりたいことがたくさんありました。
それも今はもうないです。
ただ毎日、明日が今日に、今日が昨日になっていく流れを、ただ見つめているだけです。
毎日無駄に過ごしています。
生きたくても生きられない人がいるのになんとぜいたくな、と仰られる方もいるかもしれません。
私もできることなら、私の臓器なりなんなりを、生きたい人のために使って欲しいなどとも考えます。私ができることといえば、もうそれくらいしか残ってないからです。
残念ながら日本の法律では無理らしいですが。


死ぬこと自体に恐怖を感じなくなってしまいました。明日クルマにはねられてそのまま一瞬で死ねるなら、それでもいいとさえ思います。
私の人生はいわゆる詰んだ状態ですので、これ以上生きていても何か人様の役に立てるとも思えませんし。
ただ、痛いのとか苦しいのは嫌ですね。それも生きていればこそ感じるのではありますが。
毎日毎日悪夢を見て、泣いたりしています。寝ることさえもつらく苦しいです。それが生きることだっていうのならば、もう生きることをやめたいです。


それこそ、どうせそのうち死ぬのだからと、生きているうちにと小説を書いたり。
https://note.mu/skicco/magazines
みっともないとは思いますが、どうせそのうち死ぬのだから恥ずかしいとかいうのはおかしいですし。


今日も生き恥をさらしてのうのうと生きています。ごめんなさい。


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*1:ご興味がある方は私の小説を読んでいただければと思います。 https://note.mu/skicco/m/m33288e0aac34