上伊由毘男のブログ

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生き地獄を生きろという権利が誰にあるか

アメリカのオレゴン州で、末期の脳腫瘍という診断を受けていたブリタニー・メイナードさんが、尊厳死を選択すると予告し話題になっていました。メイナードさんは予告通り、医師から処方された薬を服用し、家族に見守られる中死去したと報じられました。


尊厳死予告の米女性が命絶つ 「さようなら、世界」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

結婚して間もない頃に激しい頭痛に襲われるようになったメイナードさんは、今年1月に余命6か月の宣告を受け、侵攻性のがんで苦痛を伴う死になると告げられた。その後、米国内で「死ぬ権利」が認められている数少ない州の一つ、オレゴン(Oregon)州に夫と共に移り住むと、先月に自らの命を絶つと宣言する動画を公開。これが何百万人ものネットユーザーに視聴され、話題となっていた。


日本では、こうした“死の自己決定権”について、法的には認められていません。


尊厳死と安楽死、日本は区別 「アメリカのケースは自殺幇助」と専門家

終末期医療に詳しい、会田薫子・東京大特任准教授は「今回のケースは、自身で薬を飲むことができる状態と聞いているので、安楽死というより医師による自殺幇助(ほうじょ)と言える。引っ越してまで死を選ぶとか、自分で生活をコントロールできるうちに死にたいと願う人が欧米には存在する。だが日本では認められていない」と話している。


どうなんでしょうね。
このような死の自己決定が認められている国や地域はまだ少数派です。それにはそれなりの理由があるのでしょう。


安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること / 児玉真美 / ライター | SYNODOS -シノドス-
「セーフガードで食い止められるはずの終末期ではない人や精神障害者に致死薬が処方されている、限られた医師が多数の処方箋を書いている、処方すれば後は放置で患者が飲む場に医療職が立ちあっていない」
安楽死が合法化された国に一定年齢以上の脳損傷を治療する医療機関が存在しない」
安楽死を希望する人が同時に臓器提供も自己決定したとして、手術室またはその近くで安楽死を行い、心臓停止を待って臓器を摘出したという。摘出された臓器は、通常通りにヨーロッパ移植ネットワークによって選ばれたレシビエントに移植されたという」
セーフガードとは何か。おそらくは法制度だったり、社会の同意だったり、地域の縁とかだったりするのでしょう。しかしそれは万能ではない。金銭によってそれを支援するにしても、生活保護ですら非難され削減しろと言われるこの国で、それが期待できるのでしょうか。

どんなに重症障害のある子どもも一人の子供として尊重され、尊厳を認められて、ありのままの姿で成長し生きていくことを許される社会、人生途上で障害を負い絶望する人に「もう生きるに値しない人生だね」と共感して死なせてあげるのではなく、その人が生きる希望を取り戻すための支援を考える社会、家族介護者が介護しきれなくなったら殺してもOKにされていくような社会ではなく、支援を受けながら風通しの良い介護ができる社会へと、社会がどう変わるべきかが本当は問題なのではないだろうか。

そのように社会が変わっていければ、どんなにか素晴らしいだろうとは思います。しかし、全人類に(というのが大げさなら全日本人に)聖人君子たれというのは、いささか無理があると考えます。


愛に結ばれ信頼し合える関係であれば、命をまるごと委ね、委ねられることも可能でしょう。しかし実際は、介護やその疲れで家族を殺したいと思ったり、人生を狂わされる人たちが、介護が必要な人々と同じまたはそれ以上にたくさんいます。この児玉さんは「介護者もまた支援を必要としている」とおっしゃいます。それはその通りですし、今すぐ考えなければならない問題だと思います。
しかし同時に「たまたま血縁者が要介護な状態になったばっかりに人生めちゃくちゃだ」という思いや「家族に面倒かけて憎まれながらいつ終わるともなく命続く限り生き長らえるよりは死んだ方がマシ」という思いも、全否定されるべきではないと思うのです。それもまた生きる上での人の感情であり、冷たい人だと非難するのではなく、家族の有り様、家族の事情、家族の捉え方は人それぞれだということをまず認識すべきなのではないでしょうか。


「家族なんだから面倒見て当然だ。文句言うな。全身全霊でやれ。もちろんお前の生活は自分で何とかしろ、支援もしないし金も出さない」という現代の日本、何もかも家族というか血縁者に押し付ける社会制度、社会認識というのは、“障害者や高齢者や介護者を棄て去る社会”と同じぐらい……胸の中のもやもやを感じます。


増税しながら低所得者層や生活困窮者をさらに追いつめるような現代の政治は、「生きられるものだけがより良く生きろ、そうでないものは死ね」と言っています。そしてそれをイカンと言うのなら代替案が求められるわけですが、それは家族愛などという耳障りがいいだけのあいまいな言葉でごまかすべきではないでしょう。
死にたい、生きたい、生かせたい、死ね、それぞれの考えをタブー視せず、現実的な制度を模索するしかないんじゃないでしょうか。


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