上伊由毘男のブログ

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格差は金銭的物質的困窮のみならず精神的な苦しみも与える

私が生まれた時には高度成長期が終わっていたから、日本が貧しかった頃の事は教科書とかテレビとかあるいは戦前生まれの両親の話でしか知らない。


今、日本は世界第三位の経済大国らしい。一方で、OECDによると日本での格差と貧困は上昇し、相対的貧困率OECDの中で6番目に高いと指摘。税制や給付制度による再分配があまり行われていないのがその一因としています*1


しかし、日本で貧困が進んでいることはあまり注目されていないのではないでしょうか。でなければ、セーフティネットの拡充もなしに逆進性の強い消費税を増税するということはないはずです。貧困が進んでいるから生活保護世帯が増えているのに、保護費を引き下げています。


戦後の日本は焼け野原から再出発したと言われています。その頃から比べれば今が貧困のはずはない、というイメージがあるのかもしれません。しかし、自分も周りも貧乏なら、少なくとも自分が置いてけぼりにされているという孤独感は無かったのではないでしょうか。みんなで一斉に豊かになろうという一体感が、戦後の復興を支えていたのかもしれません。


マズロー欲求段階説によれば、生命維持と安全に関する欲求が満たされれば、次は社会の中で自分が生きたい、孤独されたり迫害されたりはしたくない、という状態を求めるということです。


ここからは私がたまたま見た光景の話になります。
ある夜、都心のある公園を通りがかった所、長い長い人の行列ができていました。見たところ男性ばかりですが、年齢も服装も様々です。なんの行列かと思ったら炊き出しでした。近くの首都高いにはクルマがビュンビュン走り、高層ビルが立ち並び、遠くには外車のディーラーの看板が見られます。最寄りのJRの駅は人で賑わっています。そこから十分そこら歩いただけで、この人気のない夜の公園の一角に、炊き出しの行列ができているのです。
私はとても奇妙な感じがしました。同じ日本の、同じ街の、このちょっとの間に、目に見えぬ壁があるような。しかも壁のこっち側からは、あっち側の景色が見えるだけで絶対に超えることはできないのに、あっち側からこっち側へはすぐにも流れてきそうな危うさを。
私だって日々ギリギリの生活をしています。ひょっとしたらもうすぐこの行列の一員になるかもしれません。そうなったとき、周りの景色はどう見えるのでしょうか。キレイで清潔な高層ビルの街を見上げた時、とても生きる力が湧いてくるようには想像できません。
リーマンショックの時には派遣村などがメディアで取り上げられましたが、今もメディアに取り上げられないだけで、住む所も無く、食事も満足にできない人がいくらでもいるのです。知識としてそれはわかっていても、いざ目の前の行列と、高層ビル群を見てしまうと、貧困への恐怖を感じずにはいられません。
貧困は自己責任ではありません。災害、事故、事件、あるいは時代、なるときにはあっと言う間です。そして、すべり台社会とも呼ばれるように、一度貧困に陥ったら、そこからの脱出は困難を極めます。


私の見た光景が極端な例だったとしても、貧困は統計にも現れています。前述のOECDの報告しかり。ひとり親世帯の子供の貧困率OECD加盟国で最下位です*2
子供の貧困は教育の貧困でもあります。貧困により教育に格差が生まれ、それが成人しても所得の格差となる。貧困の連鎖です*3大学全入時代と言われつつも、経済的理由で中退せざるをえない学生も増加しているという報道もありました*4


少子高齢化人口減社会が問題視されているのに、安心して子供が育てる環境や、成人でもやりなおせる環境に対する関心も施策も貧弱なのは、なんなんでしょうね。最近は地方創生とやらで、政府が若者の地方移転を支援するなんて報道を目にしましたが、まず若者が安心して生きられる、希望を持って生活できる環境を整えるほうが先じゃないでしょうか。


格差はあっていいと思いますよ。結果を出した人が高く評価されるのは当然のことです。しかし、誰も生まれてくる家を選べないのに、貧困が固定化し、生きる希望を奪ってしまうのは、あまりに悲しいです。生活保護は最後のセーフティネットと言われますが、最初のセーフティネットとかその次のセーフティネットとかを整備すること、生活保護を受けざるをえないような状態になる前に社会全体でなんとかしなきゃなんじゃないでしょうか。貧困の広がりは、やがて日本全体を貧困にすると思えるのですが。
日本の貧困対策が貧困だなんてシャレにならない。