上伊由毘男のブログ

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生きていることの罪悪感が消えない

今まで自分が重ねてきた罪や不徳に苛まれてつらい。自業自得そのものだから逃げ場もない。


もうアラフィフと呼ばれる歳になってしまった。その間、私はどれだけの人の役に立ってきただろうか。どれだけの人を喜ばせることができただろうか。どれだけの人の幸せの手伝いができたあろうか。


何もできてない。


ただ、ただ、生きているから生きているだけだった。何か人より優れた能力があるわけでもなく、自身の存在を人に望まれるでもなく、だらだら生きてきた。若い頃には夢と呼べるようなものも持っていた気がするが、今となってはそれももうただの絵空事だ。


それに比して、今まで自分はどれだけの人に迷惑をかけてきただろうか、どれだけの人を不愉快にしてきただろうか。自覚は無くとも、結果的にそういうことになっていたであろうことはひとつやふたつではなかろうと想像する。
そういう人間が、まだ生きてる。誰に望まれるでもなく。誰の役に立つのでもなく。


今はそうでもないが、以前自殺(未遂)を繰り返してた時期があった。結局死ねなかったからこうしてだらだら生きてるんだが。
それ以後、生きるとか死ぬとかいうことに関する感じ方が変わってしまった。以前は無条件に生きたいと思っていた。死ぬのは嫌だと思っていた。そりゃそうだ。人間である前に生き物なんだから、生存本能と呼ぶようなものは必ずあるものだ。
しかし今は、そういう、生きることに対する意欲のようなものを無くしてしまった。苦しんで死ぬのは嫌だが(生きてるから苦しむわけだが)、ある日突然命が消えるとして、仮に明日死ぬとわかったとしても、今日やることは夕食にカツ丼を食うくらいだろう。泣いてくれる人がいるわけでもなく、愛し合っている女がいるわけでもなく、ただ一人で死ぬだけだ。


それもこれも、全てはこれまで何をもできてない自分のせいなのだ。誰かのために、世間のために、何もできていない。人に惜しまれるような才能もない。やってきたことと言えば、ただ自分が生きるためのわがままだ。その結果、無意識とは言え他の人に迷惑をかけたり不愉快にしたりということもたくさんあったのだろう。


人とはそういうものだ、人に迷惑をかけずに生きていける人などいない、という話も聞いたことはある。しかしそれにしたって、私はこの世を生きるにしてはあまりに無能ではないか。不徳ではないか。迷惑だけかけて誰の役にもたってないではないか。何の役割も果たしてないのではないか。だからこそ私が死んでも泣いてくれる人がいないのだ。


自業自得なのである。人生を生きるにおいて必要な能力も、気配りも、優しさも、知見も、愛される人柄も、望まれる才能も、何にもなかった。それらが必要だとわかっていながら、それをどうやって身につけたらいいかを考える力すらなかった。
こんな人間が世の中に不要とされるのは当然である。
しかも、こういうことをインターネットで公開して、誰かに「お前は生きていていい」と言われたい、という情けない欲求を隠すことができない。我ながらどこまでもクズである。


こんな自分が今も生き続けているのは許されるのか。ずっと自問している。