上伊由毘男のブログ

ご連絡は mail at skicco.net までお願いします。このサイトはアフィリエイトを使用しています

日本史の幕末はわかりづらいのか?→やっぱりわかりづらい

大河ドラマ「西郷どん」、みなさん観てますか?俺は今のところ観てます。渡辺謙さんがカッコ良すぎてシビれまくってます。
さて、その「西郷どん」の舞台となる幕末ですが、わかりにくいんじゃないかって少し前にネットで話題になってました。


日本史の幕末が分かりづらいのは「悪の江戸幕府を正義の薩長が倒した話」と考えてしまうから? - Togetter : https://togetter.com/li/1190022


時代劇好きなんで、幕末モノで言えば日テレの「白虎隊」「五稜郭」とか大河ドラマの「徳川慶喜」「龍馬伝」とか見てたんですけど(時代劇好き言うわりに見てない作品も多いのですが)それでも幕末はよくわからない。
戦国時代は、信長→秀吉→家康、と時代時代の主人公のチェンジが一本筋なのでわかりやすいと思うんです。でも幕末は誰の視線によるかで見方まるでかわってきたりするし、そのキーパーソンが多いので理解が難しくなってるんじゃないかと思います。
上記のドラマも、それぞれの主人公を軸にした話はわかりますが、幕末全体がよく見えないんですよね。なんで、今年の大河ドラマ「西郷どん」含め、今後自分が時代劇見る時用に少しまとめてみました。ガチの歴史好き・時代劇ファンから見たらぬるいというか怒られるかもしれませんが汗


一言でまとめるなら、幕末とは
徳川幕府の弱体化に伴い権威を取り戻した朝廷を利用した薩長らの政権奪取
ってことになるんじゃないかって気がします。
以下、まとめてみましたが、「全然まとまってねーよなげーよ」って方は見出しだけ見てもわかるようにしてみましたし、なんなら最後の「まとめ」だけ読んでもいいかもしれません。あなたの楽しい時代劇ライフに役立ちますように。


ペリー来航以前に幕府は弱体化していた

幕末はペリー来航(1853年)から始まったとされることが多い気がしますが、実はその半世紀以上も前、1800年前後から海外の船が日本近海に現れていました。欧米では産業革命が起こり、新たな市場あるいは植民地を求めて日本に近づいていたのです。これに対し幕府は異国船打払令(1825年)を出し近づく船はバンバン砲撃して開国を拒否します。
この頃国内では、天保の大飢饉1833年〜)により百姓一揆や打ち壊しが頻発し、幕府による財政改革(天保の改革)も失敗してしまい、その権威は揺らいでいきます。
世間に餓死者があふれる中、手をこまねいてる幕府などに対し幕府直轄地の大坂(大阪)で大塩平八郎の乱(1837年)が起こります。これがなんで幕末に関係あるかと言うと、この時激しい被害となった大坂の状況を朝廷が知り、豊作祈願祈祷の費用を朝廷の命で幕府が負担することになりました。江戸時代から政治の実権は幕府がにぎり朝廷を支配していましたが、形式的には朝廷の方が上のためその命には逆らえず、朝廷の意思で幕府が動くことになってしまいました。この件が尊王運動の萌芽となったのかもしれません。
そして海外では、アジアの大国・清とイギリスの間でアヘン戦争1840年)が起こります。清をアヘン(麻薬)漬けにして稼ぎまくっていたイギリスに対し、清が強硬なアヘン取り締まり行ったため戦争になりました。結果、清は大敗北します。このことは幕府に衝撃を与え、ビビって異国船打払令を取り消し、遭難した船のみ補給を許すという薪水給与令(1842年)を発令。こうして、開国の機運が徐々に高まっていきます。
一方、薩摩藩長州藩など地方の雄藩は藩政改革を着実に行い、力を蓄えていきました。関が原の戦いで西軍(石田三成側)だったため僻地に飛ばされたことが、財政(密貿易とか)や武装強化には有利に働いたのでしょうか。


黒船襲来(泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず)

1853年、いよいよアメリカからペリーが浦賀に来航、開国を要求します。どうしたらいいかわからない幕府は一年の猶予を求め、ペリーはひとまず日本を去ります。
幕府は朝廷や諸大名はては庶民にまで意見を求めるものの、朝廷では攘夷派が優勢だったこともあり、有効な対策を立てられませんでした。そしてこのことが朝廷や諸大名に幕政への介入を許すきっかけになります。
1854年、ペリーが再来航。老中阿部正弘は事を穏便にすませるため日米和親条約(寄港や補給のための条約)を結びます。イギリスやロシアとも求めに応じ和親条約を締結、鎖国体制が終了しました。


最初はみんな攘夷だった→天皇に無断で海外と条約締結した大老井伊直弼が暗殺される

日米和親条約により日本総領事に赴任したハリスは通商条約(貿易のための条約)の締結を要求。老中首座堀田正睦孝明天皇から勅許を得て条約を結ぼうとしますが、攘夷を望む孝明天皇からは拒否されます。
1858年、事態打開のため大老に就任した井伊直弼は勅許を待たずに日米修好通商条約を締結。
これに対し孝明天皇徳川御三家である水戸藩に「戊午の密勅」を下賜。その内容は、徳川御三家は幕府とともに公武合体(朝廷と幕府の関係改善と幕藩体制の再建)を行い、幕府は攘夷を実行せよというものでした。しかし、幕府の頭越しに水戸藩へ勅書を渡し幕府をないがしろにしたこと井伊直弼は激怒。尊王攘夷派の大名や公家らを大量に処罰(安政の大獄)。
1860年、安政の大獄に反発した脱藩水戸浪士らにより井伊直弼は暗殺されます(桜田門外の変


公武合体派の薩摩・会津尊王攘夷派を取り締まる

1862年薩摩藩島津久光公武合体・幕政改革を求めて兵を率い江戸に入り幕府の首脳人事に介入。水戸藩出身の一橋慶喜徳川慶喜)を将軍後見職にします。
慶喜文久の改革と呼ばれる政策を実行。西洋の学問を取り入れたり西洋式軍隊の設立します。この中で、京都の尊王攘夷派を取り締まるために京都守護職を新設し、会津藩松平容保を任命しました。


公武合体派の薩摩・会津が朝廷を掌握

1862年、江戸からの帰路についた島津久光一行は、東海道・生麦村でイギリスの民間人4人と遭遇。日本の習慣を知らない彼らは行列を妨害した形となり、薩摩藩士がそのイギリス人を斬り殺す事件が発生しました(生麦事件)。
1863年生麦事件の補償を武力で求めるイギリスに対し薩摩藩は攘夷実行の名目で反撃し、薩英戦争が勃発。決着はつかず和睦となりますが、その交渉の中で双方の力を確認しお互いに“あなどれない”と感じた両者は友好関係を深めていきます。
同年、京都では尊皇攘夷急進派の長州藩土佐藩らが朝廷を動かし、幕府に攘夷実行を確約させます。これを受けて長州藩関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始(下関戦争)。一方、公武合体派の薩摩藩会津藩尊王攘夷派の公家や長州藩らを京都から追放(八月十八日の政変)します。


朝敵となった長州と政権介入に失敗した薩摩がタッグを組んで幕府軍を撃退

1864年には京都守護職会津藩)配下の新撰組が長州・土佐藩尊王攘夷派志士を襲撃(池田屋事件)。これをきっかけに長州藩は武力を背景に朝廷に自分たちの潔白を認めさせようとしますが、結果的に御所に発砲することになり、長州は朝敵となってしまいます(禁門の変)。下関戦争でも外国にフルボッコにされ、長州は攘夷は不可能と判断。イギリスと協調し、軍備増強していきます。そして朝廷は、朝敵となった長州への出兵を幕府に命じます(長州征伐)。
1866年、朝敵となり幕府に征伐されることとなった長州藩と、公武合体運動で徳川家主導の政権を目論む慶喜と路線対立し結果的に排除された薩摩藩は、長州征伐に関し共闘する密約を結びます(薩長同盟)。同年行われた第二次長州征伐で幕府は事実上敗北。もはや幕府には各藩を制する力が無いことが白日の下にさらされました。


長州、なぜか朝敵じゃなくなる←国内融和で幕府の権力を維持しようとした慶喜の策

いつも時代劇観ててここが一番わからないんですよ。お前ら朝敵だったよね。なんで薩摩と一緒に錦の御旗掲げて幕府と戦ってるん?みたいな。
1867年に孝明天皇崩御明治天皇がその位につきます。その頃、将軍慶喜らが薩摩藩島津久光土佐藩山内容堂土佐藩は今まで様子見してた)らと政策について話し合う四侯会議というものが開催されました。長州に武力で敗北した幕府は、長州に寛大な措置をとることで政権を維持し安定させようと考え、長州の赦免について明治天皇から勅許を得ます。


武力倒幕に傾いた薩摩らを抑えるため慶喜大政奉還し内乱を防ごうとする

同じく1867年、四侯会議ののち、もはや話し合いで幕府や慶喜を抑え政権参加することは無理だと判断した薩摩は、公武合体による政権参加ではなく武力倒幕を決断します。
倒幕派の公家である岩倉具視天皇の権威復活を目指し、薩摩藩長州藩徳川慶喜会津藩討伐の詔書「討幕の密勅」を下します。これについては倒幕のための偽造ではないかという説もあります。
この動きを知った土佐藩山内容堂は、自分が当主になるために協力してくれた幕府を守る案として大政奉還慶喜に建白。慶喜は、武力倒幕の大義名分を無くし内乱を防ぐため大政奉還を行い、その後天皇の下での新たな政治体制において自らの主導権を握ろうとします。
なお、会津藩大政奉還に反対だったそうです。


王政復古の大号令倒幕派によるクーデター→薩摩の挑発に乗った幕府が挙兵

同じく1867年、大政奉還後の朝廷は、新政治体制が整うまでは幕府を存続させ、政治は徳川家や親徳川派の公家等によって行われることとなります。
しかし、これでは事実上今まで通り徳川家・慶喜の主導の政治ではないかとし、倒幕派にとって到底容認できるものではありませんでした。
1868年、徳川幕府を政権から排し、天皇の権威復活を目指す公家岩倉具視は薩摩・土佐らと組み、その軍事力を使い御所を閉鎖。岩倉らが参内し、王政復古の大号令が発令されました。これにより徳川幕府は無くなり、会津藩松平容保が務めていた京都守護職も廃止になります。そして、薩摩・長州・土佐などによる新政府が樹立されました。
その頃江戸では薩摩藩が集めた倒幕・尊王攘夷派の浪士によって騒乱が起こされており、その挑発にのり幕府内は「薩摩討つべし」の声が高まり、薩摩討伐のために挙兵。京に向かいます。


京の新政府軍と旧幕府軍が激突し戊辰戦争→新政府軍の勝利で全国支配確立

1868年、薩摩討伐のため京に来た旧幕府軍と新政府軍(薩長軍)が激突(鳥羽伏見の戦い)。これが戊辰戦争のはじまりです。ここで政府軍は戦場で錦の御旗(薩長が密造)をひるがえし、幕府軍は我々は朝敵なのかというショックで総崩れとなります。当時大坂城にいた総大将徳川慶喜は、戦況不利とみるやわずかな側近と会津藩松平容保らとともに幕府軍艦開陽丸で江戸に退却。その後朝廷で慶喜追討令が出され、旧幕府軍は朝敵となってしまいました。長州の朝敵赦免をしたのは慶喜だったのに……。
以後、新政府軍は東に兵を進めていきます。
江戸では、新政府軍西郷隆盛旧幕府軍勝海舟により江戸城明け渡しに関する交渉が行われました。かつての将軍・徳川慶喜を水戸で謹慎させるなどを条件に、江戸城は新政府軍に明け渡され、江戸は戦火に巻き込まれることなく新政府軍の支配下となりました(江戸無血開城)。
一方、これらの処分を不服とする旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は抵抗派の旧幕臣らとともに幕府軍艦開陽丸で北へに向かいます。
東北では、天皇に恭順の意を示し戦闘を避けようと北日本各藩による奥羽越列藩同盟が成立してましたが、新政府軍はこれを認めず各藩を次々と撃退。鳥羽伏見の戦い旧幕府軍として戦った会津藩も朝敵とされ、白虎隊の悲劇をはじめ凄惨な戦いののち、会津軍は降伏します。会津は朝廷を守護してたはずなのに……。なお、藩主松平容保は蟄居を命ぜられた後明治まで存命。ちなみに、現代まで続く徳川宗家の血筋はこの松平容保の家系だそうです。
開陽丸で蝦夷地へ渡った榎本武揚五稜郭を占拠し蝦夷共和国を名乗り政権を樹立。蝦夷地の開拓を認めてほしいと朝廷に申し出るも新政府軍はこれを拒否し派兵。結果、新政府軍の勝利となり榎本武揚らは降伏。ここに戊辰戦争終結しました。ちなみに榎本はこの後投獄されたりもしつつ、のちに明治新政府の要職に就き活動します。


幕末はまだ終わっていなかった!武士最後の戦い・西南戦争

薩摩・長州出身者を中心とした明治新政府は、数々の改革を実施していきます。
まだ戊辰戦争中だった1868年、有名な五箇条の御誓文が発せられます。この内容も長州や土佐によるものだそうです。
版籍奉還による諸大名から天皇へ領地と領民の返還。廃藩置県による中央集権化。戸籍法による四民平等。急速に近代化が進められていきます。
1876年(明治9年)には廃刀令により士族(旧武士)でも帯刀が禁じられ、秩禄処分によりそれまで士族に与えられていた家禄(給与)が全廃されました。これらのことで士族は精神的・経済的に追いつめられ、各地で士族による反乱が起こります。
1877年、鹿児島の士族と西郷隆盛による反乱が発生し政府軍との戦いとなりました(西南戦争)が、政府軍に弾圧され、西郷は自刃。
平清盛の頃以来、700年以上続いた武士の世がここで完全に終わりました。


まとめ

ペリー来航以前に幕府は弱体化していた

黒船襲来により開国。最初はみんな攘夷派だった

天皇に無勅許で開国した井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変

大きく「公武合体派(朝廷の権威と幕府の権力で幕政再建)」と「尊王攘夷派(弱腰の幕府ではなく天皇を中心とした国づくりで外国を追い払う)」に別れ、公武合体派の薩摩・会津尊王攘夷派を取り締まる

朝廷・幕府に無理に攘夷を迫る長州、会津・薩摩と戦い朝敵となり朝廷から排除される

薩摩藩公武合体運動で主導権を握ろうとするも徳川慶喜に阻まれて失敗

朝敵となった長州への幕府出兵に対し、中央政権への介入に失敗した薩摩が長州を支援(薩長同盟)し幕府軍敗北

事態を丸く収め徳川幕府を維持したい慶喜は長州の赦免を求め勅許を得る

天皇の権威復活を目論む公家の岩倉具視薩長を焚き付けて倒幕させようとする

それを事前に察知した慶喜大政奉還し倒幕の大義名分を失わせる

倒幕派岩倉具視らの目論見で「王政復古の大号令」を発令し徳川幕府を無くし、薩長の新政府を樹立

倒幕派薩摩藩は浪士を使い江戸を荒らし幕府を挑発、幕府は薩摩討伐のため挙兵し京に向かう

京都の鳥羽伏見で新政府軍(薩長軍)と旧幕府軍(徳川会津軍)が激突、新政府軍が勝利。そのまま東征し江戸無血開城ののち、東北、北海道で旧幕府軍を撃破(戊辰戦争

薩長を中心とした新政府による明治維新により士族が困窮し反乱を起こすも新政府軍により殲滅(西南戦争


こうして武士の世は終わり、日本は近代国家を目指すことになりました。しかしよく考えると、憲法や議会ができたのは1889年(明治22年)だから、それまでは薩長らが政権を掌握してたってことですよね。
となると、幕末ってのは、開国とか近代化とかとは別に「薩摩・長州が徳川家から武力で政権を奪った」ってことを指すんじゃないんでしょうか。
今後、時代劇を観る時はそういうところも意識してみようと思います。