上伊由毘男のブログ

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死ぬために生きるような暮らしのおっさんを殺すのは孤独

一人暮らしのお年寄りに対する孤独死対策はいろいろな試みがなされているようだし、若者や女性にたいしてもさまざまな施策がある。少なくとも対策をしなければというコンセンサスはある。
だが、「キモくて金のないおっさん」は事実上放置である。なにせキモくて金のないおっさんなんか生きていてもしょうがないというコンセンサスが社会にあるのだから。


金のある人はいいだろう。あるいは金を得られるだけの職がある人もいいだろう。
だが、安月給の仕事に追われたまの休みもヘトヘトで家でぶったおれてるおっさんとか、仕事を失ってしまったおっさんは、社会には不要とばかりに放置されている。路上生活者やネットカフェ難民となればそれなりに支援があるのかもしれないが、言いかえればそういう状態になるまでほっとかれてるということでもある。


おっさんと呼ばれる年代と言えば働き盛りである。家や車を持ち、妻や子供と暮らし公私ともに忙しく働いている。これが日本における望ましい“おっさん”の姿だろう。
そして、そこから外れてしまった“おっさん”は、もはや人にあらずといった感じである。
理由に関わらず(結婚しないのではなく)結婚できない男というのは、それはあらゆる社会性に欠けている、とみなされる。そしてそれは不幸ではなく自業自得であると。ゆえに、助ける必要はないと。
女性が結婚できないのも、女性が望む生活を用意できない男が悪いというのが支配的論調である。甲斐性のない男が悪い。


「キモくて金のないおっさん」はこの世にいる場所がない。キモくて金のないおっさんが集まっても、マイナス×マイナスはプラスにならず、負のオーラが増幅されるだけである。キモくて金のないおっさんである私が言うのだから間違いない。


男は助けを求めることすらままならない。恥を忍んで声をあげても「男のくせにだらしがない」「男なんだからなんとかしろ」といったものの見方で、なかなか社会で受け止めれもらえない。
孤独。
この世に居場所がなければ、追い詰められる先は、死、である。
キモくて金のないおっさんがどんどん死んでくれれば、わりと社会は丸く収まる。失業率は減るし、社会保障費は減るし。
なにより見栄えがいい。汚いものにフタをするのが好きな人々は、キモくて金のないおっさんなど見なかったことにしたいのだろう。


若者と女性と高齢者が救われる日本に明るい未来がありますように。