上伊由毘男のブログ

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需要のない人間が生きる意味とは

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いわゆる働き盛りという年齢になり、同世代は、結婚し家庭を築いたり、会社などで責任のある仕事を任されたり、と忙しそうにしている。世の中楽なことなど何ひとつありはしないだろうが、それでも、誰かに仕事を任されたり頼られたりしているということは、必要な人だと認められているということだろう。


そして私はと言えば、そうした同世代とは比べるべくもなく、実家を追われ、不安定な職業を転々とし、今は塵芥のような仕事で糊口をしのいでいる。愛してくれるパートナーも無く、毎日とりとめのない話で気軽に笑いあえる相手もいない。携帯電話に仕事以外で連絡が入ったのは思い出せないほど前だ。


それは誰のせいでもない。私がいままで生きてきた証、そのものである。


小さい頃から人との会話がうまくできなかった。正確には、雑談ができなかった。先生からの質問には明確に答えられるが、休み時間にクラスメイトと話しても、何が冗談でそれの何が面白いのか、わからないことがしばしばだった。怒るにしても、怒りを覚える感覚が違っていたらしい。私の怒りはわけがわからない発狂だと怪訝に思われ、皆の怒りは私には共感できず、冷たいとか協調性がないとか言われた。


そのことは、周りではなく自分のほうがオカシイと気づくのにやや年月がかかったが、それがわかったところで感情レベルの話なので、自分に嘘をついて回りに合わせるのもぎこちなかったし、なかなかうまくいかなかった。なにせ、周りに合わせようにも、自分の何がオカシイのかをよく理解してなかったのだから、何をどう合わせたらいいのかも手探りだったし。その違和感はやはり相手にも伝わり、アイツはちょっとオカシイ、という目で見られるのを避ける事はできなかった。


そういう人間が、どういうわけか中年と呼ばれる年齢までおめおめと生きてしまっている。さっさと死ねばよかった。需要のない人間なんだから。


真面目に生きていくのが一番大事だと私の父は言っていた。その父は私が高校生の時に亡くなったので、今の私を見てどういうかはわからない。喜びはしないだろうが。
私は確かに真面目に生きてきた、と思う。自分で言うのも変だが、学校でも会社でも、真面目、という評価は受けてきた。しかし、そんなことに需要はなかったのだ。


人の心を動かすのは真面目さではなく気配りや笑顔であり、社会で必要とされるのは真面目さではなくハッタリと狡猾さと人たらしの力であり、モテるために必要なのは真面目さではなく女衒の才能である。
笑顔と気配りがあれば慕ってくれる人も増えるだろうし、ハッタリと狡猾さがあれば法律を無視しても会社で良い評価となるし、ヒモやホストにつかまる女性はいても真面目さが評価されることなどありはしない。


私は中年になるまで需要のない生き方をして、需要のない人間になったのだ。良いも悪いもなくそれが事実だ。
人は一人で生きていけないというのなら、需要のない人間、他の人にまるで必要とされてない人間が生きる必要などあるだろうか。


そしてこの文章もおそらく注目されないだろう。需要がないからな。