人は一人で生きているわけではありません。社会の中で生きています。であれば、一人ひとりは社会の中で、歯車だろうとなんだろうと、何かしらの役に立たなければならないし、そしてほんとんどの人は、自覚があろうがなかろうが誰かの役に立っているでしょう。
しかし、今の私は生きるに値するほど誰かの役に立っているのでしょうか。そう考えると、胸を張ってイエスとは言えないのが現状です。我ながら情けないと思いますが。
四十を過ぎても惑ってばかりです。それでも五十まで生きれば天命を知ることができるのでしょうか。
こんな、謙遜でもなんでもなく字面通りになんの取り柄もない私ですが、ありがたいことに友人知人は優しく接してくれています。誰かの役に立っているのでしょうか、と問えば、人間誰でも誰かの役に立ってるし、大それたことができないのはみんな一緒だよ、と暖かい言葉をかけてくれるでしょう。それは、私に一時の安息を与えれくれますが、家に帰り一人になると、また自分に問うのです。私に生きている価値はあるのか、と。
いち社会人として我が身を振り返れば、収入が少なく税金もわずかしか納めていない、だから消費活動で経済に貢献することもできない。守るべき伴侶や子供がいるわけでもない。じゃあ収入が増えるような仕事をすればいい、と転職を繰り返してきた結果が、今の有り様です。変わるリスクと変わらないリスクで変わるリスクを選んだ結果、リスクだけが顕在化して、もはや選択肢もなくなりました。今は塵芥のような仕事をし、命があるから生きている。それだけです。
国という共同体全体で考えると、私のような人はお荷物でしかないようです。福祉等に頼れば、自己責任だ、生産性の無い無駄飯食らいを生かしておく必要はない、国が破綻するくらいなら死んでくれ、といった意見が異口同音に乱れ飛びます。
福祉の切り捨ては着々と進んでいます。それならいっそ『処分』してもらってもいいのですが。そのほうがコスト的には少なくすむでしょうし。
とはいえ、誰も貧困層虐殺という十字架は背負いたくない。だから、勝手に死ぬように、経済的に、社会的に、追い詰めていく。自殺なら、本人が勝手に死を選んだ、と言い張ることができますからね。
そう。死ねばいいんですよ。私のようなクズは。ですがクズゆえに、痛いのや苦しいのは嫌だから、自分で死ぬこともできないのです。
また今日も、無駄に生きた一日が終わろうとしています。生きててすいません。
【関連記事】
死がいつも隣にあるように感じるようになったのはいつからだろうか - 上伊由毘男のブログ