みなさん覚えてますか。かつて日本の携帯電話会社はそれぞれにネットサービスを用意し、それゆえ携帯電話でサービスを行いたい場合はいちいちそれぞれ携帯電話会社ごとにそれを用意しなければならなかったことを。
iモードとかEZwebとか。J-PHONEあらためボーダフォンあたためソフトバンクモバイルはサービス名忘れた。
だから、携帯電話向けネットサービスを案内する場合、いちいちいちいちiモードはこう、EZwebはこう、って紹介しなければならなかったんです。
だけど、スマートフォン時代が到来しました。PCと同様にブラウザがあります。もう携帯電話キャリアにサービスを支配されることはない。ブラウザさえあればなんでもできる。HTML5があればFlashが無かろうとリッチコンテンツを提供できる。ワンソースマルチデバイスの時代がやってきてサービス提供側も楽になる。そのはずでした。
ところが、気がつけば「アプリ」という、ネットサービスであってインターネット(ワールドワイドウェブ)ではないような代物に支配されています。
これでは、ドコモがアップルやGoogleに変わっただけじゃないですか。
サービス提供側はいちいちいちいちiOSやAndroidに対応したアプリをそれぞれに用意しなければならないです。そしてアプリには元締め(アップルやGoogle)による審査があります。ということは、少なくともアップルやGoogleに目障りなサービスは出てこないということです。
かつてのマイクロソフト以上に、我々はアップルやGoogleに支配されようとしています。
死にゆくウェブ、犯人はアプリ-便利さの裏で消える開放性 - WSJ
ユーザーにとっては、アプリのあらゆる点が便利なように感じられる。それまでのものより速く動くし、使いやすい。しかし、その便利さの裏には邪悪さが潜んでいる。それは、開放性の終えん、つまりインターネット企業が21世紀で最強かつ最も影響力のある企業に成長するのを可能にしてきた開放性自体の消滅だ。
ウェブは完璧ではなかったが、人々が情報や物品を交換できるオープンな場を作った。ウェブは、企業に対して、ライバルの技術と互換性があるように設計された技術を作らせた。マイクロソフトのウェブ閲覧ソフトは、アップルのウェブサイトを忠実に表示しなければならなかった。もしそうしなければ、消費者は別のものを使った。例えばファイアフォックスやグーグルのクロームなどは、こうした消費者を取り込んでシェアを伸ばした。
若い人にとってはもはやスマートフォンをいじることはアプリを利用することと同義です。「ネットする」とはブラウザ(SafariやChrome)アプリでワールドワイドウェブを閲覧することを指します。LINEやパズドラをしているときに、その背景でインターネット技術が使われていることは意識してないし、その必要もありません。
インターネットの利便性の多くはティム・バーナーズ・リーが考案したワールドワイドウェブ(以下ウェブ)によるものでした。ウェブは、それまでマスコミが支配していた情報を開放しました。誰もが世界中に情報を発信できるようになり、またそれを利用することができるようになりました。ウェブはしばしば「グーテンベルク以来の大発明」などと言われましたがそれは決して大げさな比喩ではありません。
ウェブが、マスコミの欺瞞を暴き、大企業のゴマカシを許さず、個人の力を相対的に拡大してくれたのです。
ウィキペディアも、アマゾンも、YouTubeも、グーグルマップも、2ちゃんも、我々が享受してきたインターネットの多くの恩恵は、ウェブの功績なのです。
それなのに、ああそれなのに。
スマートフォンとアプリが、時代をiモードの頃に逆戻りさせています。そして最初に持った携帯電話がスマートフォンで、PCすら持つ必要を感じないスマフォネイティブ世代が続々と誕生しています。彼らは、我々が感じたウェブによる知の開放を享受することは出来ないでしょう。情報は、アップルに、Googleに、LINEに、グノシーに、支配された世界しか知らないからです。
こんなはずではなかったのに。どうしてこうなった。