上伊由毘男のブログ

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負い目を感じさせるセーフティネットでは役に立たない

1月12日に放送されたNHKクローズアップ現代「“無縁老人”をどう支えるのか」を見た。


“無縁老人”をどう支えるのか - NHK クローズアップ現代


身よりもなく、仕事も無い(働くことができない)高齢者たちは、生活保護を受給していても、それに負い目を感じ、自ら社会と距離をおいてしまう。生きてるだけで申し訳ないという気持ちになり、自殺を考えた人も3割にのぼるという。
困った人を助けるための制度が、引導を渡す形になっているのだ。これではなんのための福祉か、わからない。

生活保護っていうのは、最後のセーフティネットですので、所得もないし、資産もないし、家族の支援も受けられない、そういう人しか受けられない制度ですね。
そうすると、それを受けてるってことは、そこまでいってしまったっていうことなんだという、社会の一般的な見方があって、いわばこっち側から向こう側に行ってしまった人たちだというような社会一般の偏見があります。
深刻なのは、生活保護を受けているご本人も、受けるその日まではそう思ってたということですね。
生活保護受けているような人は、自立心が足りないんだ、そういう努力が足りないんだというふうに思ってたその本人が受けるようになってしまうと、もうこれは、そういう目で見ていただけに見られているというふうな意識がすごく強くなって、負い目や引け目に、強い負い目や引け目に結び付くということになりがちだと思います。


私は「働かなくても生きていける社会」が実現して欲しいと願い、このブログでも何度も書いているが、そのたびに、「寄生は死ね」的な意見が寄せられる。また、現行の生活保護制度を含め、施しを受けるなら一定の義務を果たせ、という意味の意見も見られる。
現行の生活保護制度には様々な問題があるのは事実だし、早急な改善が必要だとは思う。
だが、生活保護などのセーフティネットを「施し」とし、受給者に負い目を感じさせるようでは、制度が存在する意味はない。生きることに疑問を感じさせ、死に追いつめる制度のどこがセーフティネットなのだ。

取材している中で、すごく印象的だったのが、やはり生活保護を受けたことで、生活保護を恥ずかしく思って、例えば、ずっと長年つきあっていた友人にもう会わなくなったり、自分が住んでいる故郷に、惨めな姿を見せたくないとして、帰らなくなったという方がいらっしゃって、とても印象的でした。


生活保護受給者を批判する人の多くは、自分は絶対そんな目にあわない、と思い込んでいるのだろう。だが、思いもかけない災難だからこそ、備えておく必要があるのではないか。福祉とはそのためにあるのではないか。なんでもかんでも自己責任だったら、政治なんかいらない。

「世間に悪いなと思う
ちゃんと年金を払って 仕事をして 家がちゃんとあれば
迷惑をかけてなかった 何もなくなったから迷惑をかけている」


鈴木さんは転居先でも1人で暮らしていました。
36歳のとき経営していた会社が倒産。
離婚して妻や子どもと別れました。
しかし、その後も建設現場で仕事を続け、生活保護を受けるつもりはありませんでした。

働くことで自分の誇りを支えていたのです。
しかし腰を痛めて働けなくなり生活保護を受けざるをえなくなりました。

「自分がそうなる(生活保護を受ける)とか 考えたくなかったし
尊厳も根源もなくなっちゃう」


東日本大震災でも、多くの人が家や仕事を失った。そして、雇用保険の失業給付が終了してしまうことにともない、生活が安定する前に、仕事を探すハメになっているという。困ったときに困った人を助けれらないというのなら、我々は普段何のために税金を払っているのだ。


災害、病気、倒産……自分だけの力ではどうしようもないことに出会うことだってある。そのための、備えとしてのセーフティネットなのだから、誰でも使えるようになってなければならない。
「働かなくても生きていける社会」の実現こそが、その近道なのだ。